第7話 「あかい記憶」
──〝ご、め……まも、れ……な……〟
彼女の泣き顔が見える。ずっとずっと、自分へ謝罪を繰り返しながら。
その姿にキトは懐かしく感じつつも、心の中は哀しさでいっぱいだった。
「もう、なかな——」
泣かないでほしいと声をかけようと手を伸ばしている途中で響く音。
どすりという、何かを貫く嫌な音が辺りを包む。それが何度も繰り返されて、目の前の彼女を幾度となく何かが貫いていく。
ぐらりと倒れて見えた顔は。酷く歪んでいて見るに耐えないものだった。
「ッ……、あ、ぁあ……!」
ぎょろりと動く紫水晶は光を灯さず濁り切っていて、不気味にキトのことを見つめる。
また瞳が静かに動いた時、驚きで体のバランスを崩して床に尻餅をついてしまった。
そしてぱしゃん、と鳴る水音。
ぬめりとした感触を受けたキトが見た手は——
「あ、かい……、あかくて、あか、い……」
生暖かいこれは、いったい何だろうか。そう考えるよりも先に答えを示す震えた体。
このあかは。彼女から出ているもの。
なら。かのじょをころしたのは。
「っ、ひ……、っあ、」
ひゅ、と咽喉が渇いていく。がたがたと震える体はキトの心境を全て表していて。
不意にぱしゃん、とまた水音が鳴る。
音に恐る恐る上を見てみれば、自分と似た人が紅い瞳でこちらを見下ろしていた。
「イタイ……、ツライ……カナシイ」
まるで壊れた人形のように繰り返す譫言。
耳を塞ぎ、もう聞きたくないと叫ぶが、声は鳴り止まない。
「っ、あ、あ、あぁ、あッ……!」
目蓋をキツく閉じてすべてを拒絶した時。ふわりと香るものがキトを包み込んだ。
震える瞳で香りの元を見てみれば、別の女性がキトを守るように腕に抱いていた。
顔はよく見えない。でもこのひとをよく知っている。
「あな、たは……」
声に反応して歪められる顔。困ったような嬉しそうな、なんともいえない顔をした女性は、声にキトを抱く腕の力を強めた。
「ここへ来ては、だめ」
声もよく知っているものだった。
しかし誰のものだっただろうか。よく知っているのに、記憶の中に存在しない。
そのことに頭を混乱させていれば、女性はふと指である方向を示す。
つい、とつられて見てみれば、暗闇に僅かな光が差し込んでいた。
「キト……」
光から漏れる穏やかな声に意識が引っ張られていく。
暗闇から救い出される前に見えたものは、綺麗な真っ黒の色を身に灯す、穏やかに微笑む女性だった。
──〝あなたは……いきて〟
それは誰の願いだっただろうか。
ぽつりと呟かれた声は、確かに彼女のものだった。
-*-*-*-
そっと頬に寄せられる手を感じながら、涙を流したままキトは目覚める。虚ろな瞳は雫を纏わせて、うろうろと辺りを彷徨うばかり。
ふと視線の隅に見えた銀の糸と元気よく自分を呼ぶ声が耳に届いた。
「キト!!」
聞こえた声で完璧に覚醒する意識。ぱちぱちと目蓋を瞬くが、見えるものは変わらない。
見間違えでなければ、体の上にいる子は——
「やっと起きた! おはようごさいます」
にこりと笑うフェリアはキトの体に馬乗りになっていた。
しばらく返事のないキトを心配したフェリアはじっと顔を覗き込む。
そこでようやくぱくりと口が動いた。
「っなぁあぁあぁああぁああぁ!!」
顔を真っ赤にして大きく叫ぶ。
まず状況が理解できない。なぜ鍵のかかっている自室にフェリアが、しかもこんな体勢で自分の上にいるのかがわからず、頭が追いつかない。
思わず顔を真っ赤にしたまま続けて叫ぶ。
「どうして君が! ここに?! 鍵がかかっていたはず!!」
「……、えーっと、歌で開けました」
彼女の歌はそんなことまでできるのか、とても便利だなと思いつつ、肩をがっくりと落とす。
降りてほしいと伝えるように体を僅かに捩るが、フェリアは首を傾げるだけだった。
そして人差し指が唇に添えられて告げられること。
「──と言いたいところですが、鍵は掛かっていませんでした」
「は……?」
(てことは……昨夜閉め忘れた……?)
この状況は自身の不用心さが招いたこと。それにがっくりとするキトの体を、フェリアの指が這う。
つつ、と唇から首筋へと移動して、やがて胸元へ辿り着く。ぴく、と反応する体を紫水晶はうとりと見つめていた。
「っ……! ちょ、なに、を……」
「ずっと起きるのを……待っていました」
うっとりとして話すフェリアに、キトはまた顔を赤らめた。
指はまるでキトのことを遊ぶようにくるくると動く。ぴくりとまた反応を返した時、キトの口から荒い息が吐かれた。
「その……退いて、くれ……、動けな……い、から……」
「どうして? わたしはキトと一緒にいたいだけ、なのに……」
何もいけないことはしていない、と無邪気にも見えるほど透き通った瞳に射抜かれる。どきりと金の瞳を大きく開いて、心臓が早く動いていく。
どく、どくりという音がとても大きく聞こえたキトは、震える口で一生懸命言葉を紡いだ。
「どうしてって……むしろ部屋から出ていってほしいんだが……」
「わたしがここにいたら……だめなの……?」
つ、と再びフェリアの指がキトの体を遊んでいれば、返ってきた反応にくすりと笑う。
小さく「可愛い」と呟かれ、言葉に遊ばれているのだと感じたキトはまた叫んだ。
「っあ──そんでいるなら、とっとと出て行ってくれ!!」
声の大きさに吹っ飛ばされたフェリアの前で、扉は虚しくもばたんと大きい音を立てながら閉じられた。
「っあぁあ……そんな……」
手を伸ばすが、扉はがっちりと固く閉ざされている。がっくりと体から力を抜くが、顔は笑っていた。
──でも、真っ赤な顔が見れたなあ、と。
(可愛かったな……とても)
久々に見た、彼の真っ赤に染めた可愛らしい顔。違うひとのようで、まったく同じな彼。
懐かしさを感じて柔らかく微笑むフェリアの後ろに人影ができる。その人物はおずおずと声をかけた。
「あの……」
「はい?」
フェリアは声に振り返り、見えた人物に瞳を大きく開いた。
「な、んなんだ、いったい……!」
閉じた扉にへばり付きながらキトは慌てていた。
心臓はいまだにばくばくと大きく鼓動を打っていて、顔は真っ赤のまま。
荒い息を吐きながら目蓋を少し伏せて思うこと。
(まるでほんとうに哀しそうな顔をしていて──)
無邪気にも見えたが、僅かに見えた哀しみのいろ。懐かしさを感じつつも、胸がどうしようもないほどに締め付けられる感覚に陥る。
ぎゅっと心臓部分の布を握って、はっと息を吐いた時に思い出す言葉。
──〝わたしはキトと一緒にいたいだけ、なのに……〟
「っ──!!」
ずるりとキトは床へ誘われるようにして座り込んだ。そして自分の口元に震える手を当てる。
「あんなこと……初めて言われた……」
顔はより真っ赤に。言葉を何度も思い出して、瞳をうろうろと動かす。
誰かに一緒にいたいと言われることは初めてのことだった。どうして会ったばかりの自分にそんなことを言うのか、それが理解できなかったが、心はときりと動く。
早く心臓が鎮まらないか、と考えていた時、コルがふらふらと歩いて近づいてくるのが見えた。
「あ、コル。眠いのか?」
こしりと目元を擦りながら側へやってきたコルの頭を、「起こしてごめん」と言いながらキトは穏やかに撫でて笑う。コルは相当眠いらしく、頭をなでられながらキトの脚にしがみついた。
「まだ寝ているといい。今日は何もないから」
こくんと小さく頷いてコルはベッドへ再び横になった。
少しして穏やかな寝息がコルから聞こえ始める。音にふんわりと柔らかく笑うキトは、何もないとは言ったが見回りくらいはひとりで行こうかな、と思い、扉の近くにかけてあったジャケットを手に寄せて立ち上がった。
そしてばさりとキトは教団の服を着て、部屋の扉がキイ、と鳴った。
「あ、キト! よかった、また会えましたー」
扉を開けてすぐに出迎えたのは笑顔のフェリアだった。
しかし彼女が着ている服を見て首を傾げる。
「あれ、その服……」
先ほどまでの服とは違い、ここの仲間のものを身に纏っている。それが表すことに、キトは僅かに顔を歪めた。
「ああ、これ、さっき会った女の子が着せてくださったんです。なんでもミスティアさんが昔、着ていた服なんですって」
嬉しそうにくるくると回るフェリアに表情をぱっと戻す。顔を歪めたことに気がついていないか、とフェリアの顔を見るが、彼女はそんなキトにはてなマークを浮かべるだけだった。
ああ、これなら心配しなくて大丈夫だった、と杞憂に終わったことに胸を撫で下ろせば、フェリアはふにゃりと笑う。
「似合っていますか?」
「あ、ああ……。でもどうして──」
どうして教団の服が彼女に支給されたのかが不思議だった。
この服を身に纏うことが許されたということは、〝仲間〟として認められたということ。
そもそも誰がこの服をフェリアに渡したのだろうか、と考えていれば、こつりと足音が背後から鳴る。
音の主を見たフェリアが表情を明るくして、それにキトが振り返れば見えたのは水色の頭だった。
「服の裾が破れていたからだよー。フェリアさんが着ていた服はキースさんが直してくれているの」
「シャンテか!」
可愛らしい声を響かせながら水色髪をふたつに結った女の子がふたりに近寄る。
彼女にフェリアは服のお礼を伝え、シャンテと呼ばれた少女はなんでもないというように、首を横へ振る。
「お礼ならミスティアさんにしてください。わたしは言われたものを届けただけですから」
「でも……」
「ふふ。優しい方なのですね」
シャンテは柔らかくフェリアへ笑うと、次はくるりと身を翻してキトの方を向く。
「じゃあわたしはこれで。行くところがあるから」
「ああ、もしかしてジーニアスを起しに行くのか?」
「すんなり起きてくれればいいんだけどねー」
困ったように笑いながら、しかし足取りは軽くして、シャンテはどこかに行ってしまった。
残されたふたりにはしばらく静かな空気が漂う。なにか話した方がいいのだろうかということが頭をよぎった時、フェリアの口が先に動き出す。
「あ、あの……キト……」
「ん? どうした」
「いっ、いえ……なんでも……。ただ名前を呼びたかっただけ……です」
もじもじと頬を桃色に染めながらフェリアはキトを見つめる。
ただ名前を呼びたかっただけなんて不思議だなと思いつつも。キトはくるりと体を反転させた。
「そうか。じゃあ行くか」
「え、どこへ──」
肩の向こう側に見えたのは穏やかに笑う顔。少し冷たい雰囲気を感じていたフェリアだったが、見えた表情にほっとする。
そして白い手が指した先は——
「その服を〝授かった〟んだ。
2025.03.20