第9話 「自然体でいること」
キトが案内したいと言った人はどんなひとだろうか、と半分の期待ともう半分の不安を胸に宿しながら歩くフェリア。
彼のことだ。相手もきっと悪いひとではないはず。
そう思いつつも。相手に否定されたら嫌だという気持ちも拭えない。
どんなひとだろう。できれば仲良くできたらいいなぁと考えていた時。キトの足がぴたりと止まる。前を見てみれば扉があり、この先にいるのだとわかった瞬間、胸の鼓動が少しだけ早くなった。
意を決したフェリアが自身の胸元に手を寄せてそこをきつく握れば、キトから盛大なため息が聞こえる。
「で、来たのはいいが、絶対に寝ているよなぁ……」
寝ていると言っても、現在はお昼過ぎ。朝起きて夜寝るという生活サイクルをしていれば当然、起きているはず。
そのことに首を傾げながら言葉を出せば、大きいため息がまた聞こえる。
「彼はいつもそうなんだ。気にしないでくれ」
「あ、はい」
初めは優しく。おずおずと彼の名前をかけながら扉を数回ノックする。
しかし返事はなく、キトの顔が「やはりか」とでも言いたそうな表情へと変わった。
また、しかし今度は先ほどよりもやや強く。これでも返事がないものだから、キトから優しさが消える。
今まで見てきたキトにしては珍しく、とても強く荒く激しく扉を叩いた。それは隣の部屋で人が夢の中に気持ちよくいても、音のあまりの大きさに飛び起きるほど。
さすがに、とフェリアはやや遠慮気味に口を開いた。
「あの、これはちょっと、やりすぎ、では……」
「いいんだ。こうでもしないと──起きないから!」
そう話していれば、部屋の中から何かが倒れる音が聞こえる。
おそらく紙の束が落ちたのだろう。なら部屋の主は起きたという考えに至ったキトは手を止める。
そしてすぐに扉が荒々しく大きい音を立てながら開かれた。
「うるさい! 聞こえているからもう叩くな!!」
「起きたか、ジーニアス」
ジーニアスとキトに呼ばれた緑髪の少年はむすりと顔を歪めた。そしてやや下がってきた眼鏡を指でかちゃりと上げれば、疲れた目が光によって見えなくなる。
いつも真っ直ぐな髪に見える癖。そしてだるそうにしている雰囲気から、おそらく夜中まで本に夢中になり、寝ることが遅くなった。そのため、起きたのがつい先ほどなのだろう。
そんなことではいつか倒れるぞ、というキトの忠告に、明るい青の瞳が細められる。
「……用はそんなことか」
「いや、違うんだが……」
不機嫌な表情のまま、ちらりと横を見たジーニアスはフェリアに気が付く。
じとりと硝子の向こう側にある瞳に見つめられ、このタイミングかと、細い咽喉がごくりと鳴った。
「誰だ、この女」
「あ、すみません。昨日ここに入ったフェリアと申します。よろしくお願いします」
ぺこりと丁寧に下げられる頭に、そんな話は聞いていないとまた顔が歪められる。
それもそのはず。
フェリアは昨日の質問攻めのあとはすぐに自身の部屋へと行き、そのまま眠って朝を迎えた。そして朝から今現在まで寝ていたジーニアスの耳に入るわけもない。
そんな彼のことだから、きっと何日も後になってから会い、今もしわしわの眉間の皺が余計に深くなるに違いない。
そう考えたキトはジーニアスにフェリアを会わせようと思ったのだ。
しかしジーニアスはフェリアのことをじろじろと見ているだけ。なにかを怪しむような瞳を向けられたフェリアは、居た堪れなくなり、瞳をやや下へ向けた。
そして深いため息が聞こえ、すっと手が出される。
「……ジーニアスだ。よろし、」
「っあ──!! やっと起きたあぁあぁぁああぁッッ!!」
やっと挨拶が交わされる。そうキトが安堵の息を吐こうとした途中で響く声。
びくんと体を跳ねさせる隙も与えてもらえず、何者かがジーニアスに突進してきた。
そのまま彼諸共、床へ転がり大きく響く頭を打つ派手な音。
「っシャンテ! いい加減にしろ!!」
「だぁって、だって! 扉すら開けてくれないんだもん!」
びえーっといった泣き声が聞こえてきそうなほど涙を流しているシャンテが、突進してきた人物だった。
彼女は打ちつけた頭を自身の手でさするジーニアスの上に、馬乗りになっていた。
そんな彼らを見てキトは思う。
やっぱりこんな体勢はちょっとないな、と。
「お前は開けたが最後、飛びついてくるだろ。今みたいに!」
「だあってえぇええぇぇッ!」
揉み合うふたりをキトはまたかと言いたそうな顔で見ていて、初めて見るフェリアはぽかんとしてしまう。
これもいつものことなのだろうか。ここは賑やかだなと思いつつ。乾いた笑いを出した時、シャンテがキトとフェリアに気がつく。
自分とジーニアスしかこの場にいないと思っていた彼女は、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「あ、あああの……これ、は……その……」
「いいから退け」
恥じらい虚しくも、どさりと床に転がされる。
あまりにも派手に転がったため、心配したフェリアがすぐに駆け寄り、体を折り曲げて手を差し出した。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとう、ございます」
シャンテは顔が赤いままフェリアの手を取って立ち上がる。
シャンテの捲れた服の裾をフェリアが直せば、顔の赤みは深さを増す。
そんなシャンテを見ながら、差し出されたキトの手を取ったジーニアスも起き上がった。
「恥ずかしいいぃいぃいいぃぃ……。こんなとこ、見られるなんて……」
「シャンテさんがこんなに元気な方だとは思いませんでした」
くすりと穏やかに変わる表情に、余計に恥ずかしくなる。自分の両頬に手を当てながら照れるシャンテに、フェリアは小さく耳打ちした。
「なかなか起きない彼は、ジーニアスさんだったんですね」
「あ、あぁあうう……」
声と反応が言葉の肯定だと受け取ったフェリアは、また穏やかに笑う。
そのままにっこりとした笑顔を見せられ、言葉も出ないまま顔は真っ赤に、背に生えている白い羽と頭は俯いてしまった。
そんなふたりを見ていたキトが驚きの声を出す。
「あんなに顔を真っ赤にしているシャンテなんて……初めて見たぞ」
「あいつにも恥じらいというものがあったという方が驚きだ」
眼鏡を再び直す仕草から、本当に驚いているのだということがわかる。
そういうところがジーニアスらしい、とキトが呆れ気味に言えば、フェリアがまたふんわりと柔らかく笑う。
「あ、あと私には楽にしてください」
「で、でも……あなたの方がわたしより年上、ですし……」
「では私も貴女のことを『シャンテ』と呼ばせてもらいますから」
これで同じです、と言われれば、シャンテは頬を仄かに染めてこくりと頷いた。
そのままくるりとジーニアスの方に向き、同じことを伝えれば、ため息が返ってくる。
「ジーニアスだ。さんはいらない」
「はい、ありがとうございます!」
にこりとフェリアが笑えば、ジーニアスはふう、と息を吐く。
そこで思い出される、ここへ来た本当の目的。
「で、用はなんだ」
「あ、そうだった、すっかり忘れてた……」
「ろくでもない用だったら叩くぞ」
「いや、結構大事……かも」
腕を組みながら首を傾げるジーニアスに、キトは真剣な顔で話し始める。
纏う雰囲気がやや冷たいものへと変わったことを肌で感じた青の瞳が細められた。
「【
「……どうしてだ?」
なかなか教えてはくれないだろうということはわかっていたこと。以前も訊いたことがあるが、上手くはぐらかされてしまった。
確信があるわけではない。そのため話していいか迷う瞳がうろうろと彷徨う。
それにこのことを本人に聞かれるわけにはいかない。
そう思ったキトはジーニアスの耳に自身の口を近づけて、思っていることを簡潔に小さく伝える。
言葉の内容に、瞳が大きく開かれた。
「それ、本当か?」
きつい視線と共に投げられる言葉。確かではないが、可能性を含むと真剣な眼差しで頷く。
キトの言葉に事の重大さを感じたジーニアスは、自身の顎に手を寄せてしばらく悩んでいた。
やがて答えに至ったのか、小さいため息が聞こえてくる。
「……わかった」
こくんと頷いたことを確認して、吐かれる安堵の息。
キトが思っていることを叶えられる宝石は、現存するものだと、先ほど彼が言った【意思のある宝石】しかないだろう。断られたらどうするか。他に代わりとなるものはあるのだろうか。
そう考えても代替となるものが浮かばなかったものだから、お手上げ状態となってしまうところだった。
しかしその考えも杞憂に終わった。
ほっとしているキトにジーニアスは「少し待ってろ」と素っ気なく伝えて、自室へと帰る。
微かに開いた扉の向こう側から、紙の上をペンが滑る音が聞こ始める。おそらくそのひとがいる場所を、紙に書いてくれているのだろう。
しばらくすればジーニアスが手に紙を持って戻ってくる。
すっと差し出される紙を感謝の言葉と共にキトは受け取るが、描かれた絵を見た瞬間、ぴきりと固まってしまう。
なにかまずいことでも描いてあるのだろうか、とフェリアが覗き込めば小さくあがる、「まあ」といった驚きの声。
「あの、ジーニアス……。もう少しわかりやすくしてくれると……助かるんだが……」
そこにはミミズが這ったようなよくわからない図が浮かんでいた。
おそらくジーニアスも一生懸命に描いてくれたのだろう。そのことがわかるから、余計にはっきりと言えない。
なんと伝えればいいのだろうかと悩んでいれば、盛大なため息で返される。
「これで解らないとはお前はバカか」
「っ……、あのなあ!!」
オブラートに包んだが、逆にこちらを馬鹿にされてしまった。そうじゃないと叫ぶキトの手からフェリアへ紙が渡り、今度はシャンテも覗き込む。
小さく声を上げたシャンテに理解できるかとフェリアが訊けば、こんなのを解読できる人物などいないと返される。
そして紙を受け取ったシャンテは、どこからか出したペンで解読不能な図にさらに書き込んだ。
「これじゃわかんないよねー。どれどれ、こうならわかるかなー」
鼻歌混じりでペンはするすると滑っていく。
やがて誰がどう見ても地図へと姿を変えたことに、キトとフェリアから驚きの声が上がった。
「はい! これならわかると思うよー」
「おお、とてもわかりやすい……!」
ありがとう、と伝えながら地図を見てみれば、ここからそんなに距離はない。これならこの後に行っても大丈夫だろうと、明るくなるキトの表情。
そしてシャンテがじとりとジーニアスを見つめる。
「ジーニアスは相変わらず絵がへったくそなんだから」
痛いところを突かれ、小さい声をあげて黙ってしまう。
せっかくキトが言わないようにしたところをシャンテはすらりと言ってしまうのだから、このふたりの間には遠慮というものはないのだろう。
このことからもしかしてと思ったフェリアがふたりをじーっと見た時、ジーニアスの眼鏡がかちゃりと鳴った。
「天才の僕が書くものはお前たちには難しすぎたか」
ふんと息を吐きながら強気に出された言葉に、キトは呆れた目を向ける。視線に気づいてキトを見れば、さらにじとりと見られ、ジーニアスの顔が歪んでいく。
「なんだその目は」
「いや、なんでも? 天才様にもできないことがあるんだなーって思って」
言葉に喧嘩を売られたと思い、声が尖っていく。上等だとジーニアスが腕を動かせば、キトの表情が挑発するようなものへ変わる。
「体力じゃ俺に負けるくせに?」
「お前も人のことを言えないくらい貧弱だろ」
「おーおー、言ってくれるじゃないか」
ぴきりとキトが顔を歪め、ついに殴り合いにでもなりそうな雰囲気へと変わる。
このままではまずいとフェリアがキトの腕を掴み、シャンテがジーニアスの腰に抱きついてふたりを止めに入った。
「まーまー、その辺にしてください。ここには喧嘩をするために来たのではないでしょう?」
「ジーニアスもその辺にしなよー。キトに体力で勝てないことはほんとなんだから」
「本当のこととはなんだ、本当のこととは!」
また的確に傷を抉ってくるシャンテを振り解こうとじたばた暴れるジーニアス。こんな感じでは言っただけでは聞かないだろうという考えに至ったシャンテは大きく息を吸う。
そして小さく声を出しながら彼の腹に拳をひとつ、お見舞いする。
すると打ちどころが悪かったのか、ジーニアスはばたりと床へ倒れた。
目の前で行われた実力行使に、キトとフェリアはぽかんと間抜けな顔をしながら、体の動きを止める。
そんなふたりにシャンテは困ったような笑顔を向けた。
「ごめんね。ジーニアスのことはわたしが見てるから、キトはそこに行ってきて?」
「あ、ああ……。その、すまない」
ジーニアスと一緒にいると、自然体な姿になるキトは、女性ふたりに迷惑をかけたのだと、ここで冷静に戻る。
謝罪の言葉と共に申し訳ない空気を出せば、シャンテはまたにっこりと、まるで安心させるような笑顔を見せた。
「大丈夫、だいじょーぶ。気にしないで」
気絶したままのジーニアスに寄り添いながら手をひらひら振る彼女に、ここは任せたほうがいいだろう。なら、とキトは感謝の言葉に「あとは頼んだ」と添えて、ゆっくりと足を進める。
フェリアもシャンテにぺこりと頭を軽く下げてキトの後へ続く。
徐々に小さくなるふたつの背中を見つめたまま、シャンテはまた柔らかく笑った。
「さっきはすまなかった」
前を歩くキトから謝罪の言葉がぽつりと零される。
なんのことだろうと首を傾げれば、キトは歩く速さを弱めて、フェリアと並んで歩く形へと変えた。
「見苦しいところを見せて……その」
言葉にさっきのことだとわかったフェリアは、嫌な気持ちは抱いていない、と柔らかく笑いながら伝える。
正直、驚きはした。
見た目よりも落ち着いた雰囲気をしているキトが、あんなにも少年のような姿を見せたことに驚いたが、同時に新しい一面が見れたことを喜んだ自分もいた。
それと一緒に。ここは彼にとっての〝居場所〟なのだと、安心と寂しさも感じた。
「大丈夫です。それよりも今から行くところは、私もご一緒していいのですか?」
「むしろ君がいないと意味がない。その羽は隠した方がいいと思うから」
言葉に驚きを隠せない。
フェリア自身も背中の羽へ注がれる視線をかなり受けた。それはだんだんと羽がある自分はおかしいのだろうか、とまで考えてしまうほどに。
なぜだかはわからない。でも自分は皆とは違う。少しの疎外感すら感じる空間は居心地が悪い。
羽を隠せたらいいな、と思っていたことは、キトも考えていてくれたようだ。そしてこれから行く場所はそれが叶えられるところ。
そのことがわかったフェリアは感謝の言葉を伝え、先ほど受け取ったメモをキトへ返す。
紙がひらりと動いた後、何かを思い出したような声がキトから漏れた。
「コルも連れていくか」
「今、どちらにいるんですか?」
「俺の部屋で寝ているはずだから起こしに——」
言葉の途中でコルが前からゆっくりと歩いてきた。よろよろと頼りなく、目元を自身の手で擦って必死に歩いているように見える。
「コル、起きたのか」
危ない足取りのコルを心配したキトは体を折り曲げて、片膝を床へつける。
声を聞いたコルは走り出してキトのそばへ寄り、頼りなく服の裾を掴んだ。
「どうした、まだ眠いのか?」
こくんと頷いてうとうととしているコルを見たキトは穏やかに笑う。そのまま頭を撫でてコルを安心させれば、ついに目蓋は下りてきてしまった。
「なら部屋で寝ているといい。さっきも言ったが、今日は何もないから——」
「やだ……、いっしょ……」
目蓋は閉じたまま必死に頭を横へ振り、一緒がいいと伝える。しかしこのまま連れ回すのも気が進まない。自分が抱いて目的地へ行くのも大変。
なら、とキトはジャケットを静かに脱いで、コルに優しく掛ける。
「コルに預けるから、これを守っていてほしい」
言われたことはきっと、自分を気遣った言葉。大切なものを守っていてほしいということの意味を知ったコルは、ジャケットを握り、こくんと小さく頷く。
ここで限界がきたようで、キトにとさりと体を傾けた。
「寝てしまった……な」
穏やかに、甘く顔を歪めて呟くキトを、フェリアは黙ったまま顔を綻ばせて優しく見ていた。
そんな彼女の方へ顔を向けたつつ、キトはコルを横向きに抱き上げた。
「すまないが、コルを俺の部屋に連れて行ってもいいか?」
「構いませんよ」
「ありがとう」
幸いなことに、自分の部屋はすぐそこ。穏やかな寝息を立てるコルを起こさないようにゆっくりと歩くが、すぐに部屋へ着いた。
ちょっと待っていてほしいと伝え、器用に部屋の扉を開ける。今は昼過ぎなため、電気をつけなくても窓から入る光で部屋の中は結構明るい。
そのまま自身のベッドへ進み、優しくそっとコルをジャケットごと横たえる。
「これでよし、と」
穏やかに笑ってからコルの頬を撫でて、寝るには部屋が明るすぎるかと思い、窓へ近づいてカーテンを閉める。程よい暗さになったことを確認して、もう一度コルへ向く。
「いってくるね」
小さく穏やかに呟き、部屋を後にする。
「大丈夫ですか?」
扉を開ければ、フェリアが立っていた。
がちゃりと扉に鍵を掛けつつ、大丈夫だと伝えてドアノブを回し、鍵が確かにかかったことを確認する。
「じゃあ行こうか」
「はい。場所は、確か街の中でしたよね?」
「そうだな。店の名前は——」
かさりと鳴るメモの中心。丸で囲まれたところには『ラピスヴィア』と記されていた。
2025.09.21