第1幕 第02曲 「新たなお客様」
「大丈夫、怖くないよ」
服と顔を泥だらけにしながら地面に伏せて、目の前で震えている黒猫に優しく声をかける。
「さあ、こちらに」
ルティナが手を差し出せば猫は彼女の優しさを感じたのか、警戒を僅かに引っ込める。それに微笑みながら、ポケットから猫の餌を取り出し、手のひらに乗せて無言のままそれを猫に差し出す。
しばらく様子を伺っていた猫だが、こちらに危害を加える気がないと解ったのか茂みからゆっくりと姿を現し、手に乗っている餌に鼻をくっつける。
匂いを嗅いだ後、ゆっくりと食べ始めた。
「いい子。お腹が空いていたんですのね」
ほわりと笑い、餌をゆっくりと食べる猫を急かすこともなく嬉しそうな顔をしながら、ルティナはのんびりと食べ終わることを待っていた。
やがて餌を食べ終えた猫はルティナに近付き、泥だらけの顔にすり、と自分の顔を擦り付けた。
「まあ、もう大丈夫なの?」
くすぐったい、と笑いながら猫の頭に手を乗せれば、嫌がらないことを喜ぶ。これなら大丈夫かと猫を膝の上に
優しく笑みながら、ぽんぽんと自身の膝の上を叩けば、猫はゆっくりと乗った。そのまま体を丸くしてすぐに聞こえ始める、猫の穏やかな寝息。
「眠たかったんですのね。もう少ししたらあなたのご主人様のところに帰りましょうね」
優しく猫の頭を撫でる彼女の上に、大きい人影ができる。いつも嗅いでいる香りに警戒もなく、その人物を見てルティナは猫を撫でながら微笑んだ。
「あら、あなたは……」
-*-*-*-
そわそわと男性は体を揺らす。目の前には不機嫌そうに顔を歪める青年がソファに腰掛けていて、手には書類を持ってそれに目を這わせている。
「あの……」
おずおずと男性が目の前の青年——ゼスに声をかければ、彼の顔は更に歪んでいく。
「なんだ」
ため息と共に紡がれる声。声色も怖いもので、それに驚いた男性は微かに震えながら小さく言葉を続けた。
「本当に……あの女の子だけで、大丈夫なんでしょう、ひえっ!」
言葉の途中で鋭い
瞳が放つ酷さまで感じる冷たさと鋭さに、男性は言葉の途中で情けない声を出して震え上がってしまった。
「……、彼女なら大丈夫だ。きっとお前の猫を連れて帰ってくる」
「はあ……」
ため息にも似た声を出して、待つこと以外にすることがない男性は、ふと目に入った自分にと出された温かい飲み物を口に運んだ。
(美味しい……)
飲み物は緊張が
なんの茶葉なんだろう、とか、他に何か入っているのだろうか、とかいろいろな考えが男性の頭の中に浮かんだ時、部屋の扉が豪快な音を立てて開かれた。
「猫ちゃんを連れてきましたわ!」
自信満々の顔で姿を現す、顔と服が泥だらけのルティナ。そして腕の中には大事そうに黒猫が抱えられている。
「ノア?!」
男性が立ち上がり声をかければ、猫は小さい声を出す。それが合図となり、男性はルティナから猫を預かった。
「よかった、どこにいたんだ?」
よしよしと言いながら大きい手で撫でれば、ノアは気持ちよさそうに目を細め、
そんな姿を見たルティナは安心したような表情で笑った。
「またお前は」
しかしその光景の代償に、泥だらけの酷い姿になってしまったルティナをじとりと見つめるゼス。またか、とルティナは顔を歪めた。
「無事に猫ちゃんが見つかったのだから、いいじゃありませんか」
「だからってお前がこんな姿になっ、」
「あの、ありがとうございます!」
ゼスの言葉の途中で男性が喜びの声を出す。自分の言葉を遮られたゼスは顔を歪め、ルティナは男性に微笑んだ。
「見つかってよかったですわ。あなたもよかったね」
続けて猫にも優しく微笑む。そんな彼女に猫は小さく「にゃー」と鳴く。
それはまるで「ありがとう」とルティナに言っているようだった。
-*-*-*-
「——で、余計なものまで連れてきたな」
男性と猫を見送ったふたり。
ルティナが手を振ることを止めてゼスが不機嫌な声を出せば、建物の茂みから何かが勢いよく飛び出してきた。
「『余計なもの』とは失礼だろー?!」
ゼスの言葉に不満な顔をした青年が茂みから現れる。金の頭に葉を乗せ、
「本当の事を言った迄だ」
さっさと帰れ、と付け加えるゼスに青年はまた不満の声を上げる。
「まあまあ。ギノさん、よかったら紅茶でも飲んでいってくださいな」
「さっすがルティナちゃん! じゃあお言葉に甘えて。……っと、すごい格好をしてるんだな」
嬉しそうにしているギノと呼ばれた青年は、泥だらけのルティナを見て顔色を一気に変える。
そして何かを思いついたのか、カタカタと震えながら驚きと恐怖の顔を指と共にゼスへ向けた。
「まさかゼス……お前が……?」
「直ぐに帰宅する事を希望している様だな?」
ごきりごきりと手を鳴らし、見るに耐えない顔を見せながら、金の頭を怒りに染まった大きい手が掴む。
助けを呼ぶ悲鳴にも似た声が上がれば、ルティナがそんな彼らを止めた。
「こんなところで事件を起こしてはだめですわよ」
冷や汗をかきながら小さい声で言えば、不満そうな顔をしてはいたが少し黙った後に怒りの手は下ろされる。
ギノは内心で助かった喜びとルティナへの感謝を呟きながら安堵の息を吐いた。
「とにかく中へ入りましょう」
有無を言わさない雰囲気のルティナに背中を押されながら、男ふたりはずるずると部屋に入った。
-*-*-*-
「ルティ、お前は風呂に入ってこい」
部屋に入り、ルティナがギノのために淹れた紅茶を部屋の中央にあるテーブルに置いた時。ゼスはぽいっとタオルをルティナに渡しながらそう告げる。
確かにそうだ、と呟きながら、ルティナはギノの方を向いた。
「あの、ギノさん。少し失礼しても……?」
「んあ、オレっちのことは気にせず、ごゆっくりどうぞ」
案内もされていないのに、当然の如く部屋の中央にあるソファへどかりと腰を下ろしたギノは、ひらりと手を振りながらそう言う。ルティナが礼を言いながら部屋を後にすれば、すぐに聞こえる水の音。
それにギノがにやりと笑った。
「ゼスも一緒に入ってくれば?」
「……」
茶化せばまた怒られるか、とも考えたが、ゼスは怒らずに自身の顎に手を添えて何かを考え、黙っていた。
「ゼス?」
いつもと違う雰囲気の彼に、ギノは首を傾げる。何かを言おうと薄い唇が動いた時、風呂場から聞こえる機嫌のいい歌。
あ、これは時間がかかるぞ、と珍しく同じことを頭に浮かべる。
ゼスは再び何かを考え、ギノは出された紅茶を静かに啜り、黙って彼女を待つことにした。
-*-*-*-
「……で、
ルティナが風呂から上がり、ギノの目の前には二杯目の紅茶が出された。先ほどのものとは種類が違う、こちらも美味しそうな香りが立つ紅茶を嬉しそうに飲むギノに、自分にと用意された紅茶が置かれた向かい側へ座るゼスは問う。
それに「ああ、そうだ」と用事を思い出して、言葉を続けた。
「噂……なんだけどよ、『イスターリア』がそろそろ
「……そうか」
それだけで言葉が何を指すのか解ったゼスは、微かに視線を下に向ける。
こくりと紅茶をもう一口飲んだギノは、静かに言葉を紡いだ。
「でもよ——〝
自身の腕を自分の後ろ頭で組みながら、オレも一度お目にかかりたいねぇ、と呟くギノ。
そんな彼をゼスがまたじとりと見つめ、ルティナは茶菓子をテーブルに置いて「どうぞ」と微笑んだ。
礼を言ったギノは、やや興奮気味で菓子に手を伸ばす。
「なかでも
「……そんなにか」
呆れたような冷たい声に「あったり前だろ!」と言いながら、ギノはその場に立ち上がり、拳を握った。
「なんていったって、
瞳を爛々と光らせながらそれの素晴らしさを語るギノをどうしたものかとゼスは悩み、そんな彼らにルティナは紅茶のおかわりを勧めつつ言葉を投げる。
「でもギノさん、その『ネーヴァリア』に会ったら、何をしたいんですの?」
「そうだなー、何もしなくても、見ることができるだけでいいかもなあ」
まあ勝手に体が動いて、体中を触ってるかも、とわきわき手を動かしながら呟くギノに、ルティナは乾いた笑いを出した。
「で、用はそれだけか?」
「ん、ああ。あとは疲れたから少し休ませてほし、」
「帰れ今すぐに」
冷たくあしらうゼスと、それに頬を膨らませるギノ。そんな彼らを見ていたルティナは「いつもと変わらない穏やかなお昼だなぁ」と思いつつ、ふと微笑んだ。
そんな穏やかな空気が流れていた時、来客を知らせるベルの音が部屋に響く。それにゼスとギノがぴくりと反応した。
「客か? ならオレっちは退散するとしようかな」
よいしょ、と言いながらギノは立ち上がる。そんな彼を見送ると同時に、来た人物を迎え入れようとルティナも動き出した。
玄関まで歩けば、ギノはくるりと振り返る。
そんな彼に申し訳なさそうな笑い顔が向けられた。
「あの……、ルイスがあんなことを言ってしまって、ごめんなさい」
「んあ、なんのこと?」
ぐしゃりと顔を歪めたルティナの頭をぽんぽんと叩き、眩しいとまで感じる笑顔を見せられる。
それはまるで「大丈夫だから気にするな」と言っているような
「また来るよ」
ひらりと手を振ってから玄関を開ければ、そこには女性と子供が立っていた。
女性の表情は重く暗く、子供は手に何かの本を持って女性の側を付いている。
「んじゃ、またな」
「ええ、気をつけて」
互いに笑いながら別れ、とても広い背中が小さくなるまで見送る。
金色の髪が見えなくなったことを確認したルティナが女性の方を見れば、びくりと跳ねる震えた身体。
「あの、何か御用ですか?」
穏やかに声をかけるが、表情は変わらないまま。
そんな女性に子供が小さく「まま」と言えば、女性は重い口を開く。
「あの……、〝なんでも屋〟はここですか?」
「はい、お客様でしたのね」
どうぞ、と手で中を入るように示せば、女性と子供はゆっくりと入った。
「こちらにお掛けください」
部屋の中央にあるソファへ掛けるよう告げて、ルティナは奥へ消える。彼女が戻ってくるまでの間も、女性が纏う空気は変わらなかった。
「お待たせいたしました」
手に飲み物をふたつ持ち、それをテーブルに置く。幼い少女は飲み物——柑橘系のジュースをすぐに手に取り口に含む。
明るい顔を見せた彼女にルティナが微笑むと、女性はゆっくりと重たい口を開いた。
「あの……、その……〝悪魔憑き〟が……出たんです」
その言葉に、尖った耳がぴくりと動いた。
2024.11.16